UNISON SQUARE GARDENってバンドがやばいという話
5月20日。待ちに待った5月20日だ。
今日は私が傾倒するバンド、UNISON SQUARE GARDENの10thシングル『シュガーソングとビターステップ』の発売日である。
まあ、縁の糸のいたずらなのか、昨日の時点で聴く事が出来てたんだけど。
感想を一言に纏めると「めちゃくちゃ良い曲だった」に尽きる。
こんな稚拙極まりない言葉だけでは語り尽くせない魅力というか、『引っ掛かり』が山ほどあったんだけど、それを今から語ろう。
というか、このバンドに関して私が思う事をまるまる一記事使って語りまくってやろう。
今回については特例的に伝える努力をしない。私が好きなようにしっちゃかめっちゃか書いてやる。
それでも読みたいっていう物好きの読者がいたら、この記事にうんざりするか、このバンドに興味を持つかするまで付き合ってもらおう。
長いぞ、そして雑だ。
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ソシャゲから馬車を走らせシンデレラ
アニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ」が放送を開始した。
予想通り面白い。というか、PVを見た当初から「これはイケるな」と思っていたんだけど、想像以上に面白い。
演出がとにかく丁寧で、何かもう泣きそうになる。すごく雰囲気の優しいアニメだ。
「アイドルマスター」という大きな母体があるとは言え、一介のソーシャルゲームがここまで大々的にアニメ化するというのは珍しいと思う。
ソーシャルゲームという分野が注目され始めてから早数年。
その黎明期から存在するのがこの「シンデレラガールズ」でもある。
そもそも母体である「アイドルマスター」自体がアーケードゲームから劇場アニメにまで発展を遂げている今、「シンデレラガールズ」の躍進もある意味約束されていたものなのかもしれない。
だけど、ここまで数を増やしたソーシャルゲームの中で、埋もれる事無くここまでコンテンツを続かせられているというのは、やっぱり相当凄いことなんじゃかろうか。
そもそもソーシャルゲームはゼロ年代後期~10年代初頭にかけて頭角を現してきたジャンルだ。
スマートフォンが普及し始め、その中で手軽に遊べるゲームとして、スマートフォンと同時に流行り始めたように記憶している。
2012年5月には消費者庁がソーシャルゲームの運営会社に注意を喚起するといった「コンプガチャ問題」もあった。
私がソーシャルゲームを遊んだのは、スマホも普及して久しい時だったんだけど、その時初めて遊んだのが「シンデレラガールズ」だった。
ぶっちゃけゲーム性自体は、いわゆるカードゲームだからどこもかしこも似たり寄ったりなんだけど、私が「シンデレラガールズ」において感心したのはコンテンツを大事にしている所だ。
どれもこれも濃いキャラばかり(ここが結構好み)で、コンスタントに人気キャラ達に新しいイラストとカードを与えて……。
ここまではどこのソーシャルゲームでも同じなんだけど、「シンデレラガールズ」はその上に人気投票をやって、キャラクターボイスを付けて、CDを出して、ラジオをやって……と大盤振る舞い。
ここで重要だと思うのは、私が感じた事なんだけど、このゲームはユーザーにアコギにというだけではなく真摯にも向き合ってきたと言う事だ。
そもそもソーシャルゲームってアコギな商売だし、コンテンツ食い潰し前提のジャンルみたいなものだから、当時はどのゲームも「ずさんな搾取」の仕方しかしてないようなイメージなんだけど、「シンデレラガールズ」は「丁寧な搾取」をしていた様に思う。
人気投票やキャラクターボイスという形でユーザーに真摯な姿勢を見せる事により、その姿勢によってキャラに惚れ込んだユーザーがゲームに課金する。
この「丁寧な搾取」というのは、「シンデレラガールズ」がここまで大きくなった要因の一つだと思う。だからこの場合の搾取は、むしろ褒め言葉だ。
「ずさんな搾取」のイメージが間違ってたら、この記事は白紙なんだけど。
この前の記事で最近のスマホゲームについて書いた時に調べて思ったのが、最近のスマホゲームは随分丁寧に作り込まれているな、と言う事だった。
見た感じ、幾分かゲーム要素も追加されたりバリエーションも豊かになってたり。
今回の記事で昔のスマホゲーム、その一つが躍進を遂げた理由について思う事を書いてみて分かったのが、今はどこのスマホゲームも趣向を凝らして、昔より随分丁寧に搾取するようになっているなという事。
今はまだ見た感じでしか語れないから書きはしないんだけど(パズドラとかはガラケーからは遊べないからね)、いずれ遊ぶ事が出来たらスマホゲーム今昔比較みたいな記事も書いてみたい。
ともあれ、ソーシャルゲームから馬車を走らせ続け、アニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ」。今期イチオシのアニメだ。皆さん見ましょう。
スマホゲームから感じる、カセットレスの新時代
私は田舎の中でも都会、ってレベルの田舎に住んでいるからよくわからないんだけど、都会の人々は電車の中でみんなしてスマートフォンをいじっているらしい。(実際のところどうなのかは知らない)
ツイッターをやってるのかパズドラをやっているのか、それとも別の何かしらをやってるのか。見知らぬ誰かがすぐ目の前、すぐ隣でインターネットに接続してるかもしれない空間ってなんだか不思議だね。
と言っても、その光景は次の世代の子供たちにとっては不思議はなくなっていくんだろうなーという話は前の記事で書いた通りで。
閑話休題、ここで私が思うのは、ゲームの遊ばれ方っていうのが随分と変わってきているなあ、ということだ。
ていうか、そもそもカセットもゲーム機も無いのに遊べるゲームってなんだ? 何者なんだ?
いや、だって少し前まで、例えばマイナーな携帯ゲーム機なんだけど、ゲームギアなんかだったらあの大きくてかさばるカセットが無かったら遊べなかったじゃん。3時間ごとに電池交換しなきゃいけないくらい、燃費とかも悪かったじゃん。(いやカセットの部分はゲームボーイも同じだけど)
それが今やなんだ、携帯電話で、カセットなんかいらずに、しかもタッチスクリーン対応のゲームが遊べてしまうわけだ。
なんだそれ。未来かよ。
いやいや、よく考えたら、よく考えなくても大変な事ですよ。
なんだそれ。まずケータイでゲームが遊べるってなに? カセットがいらないってなに? なんで画面を触っただけでゲームができるの? ていうかケータイがタッチスクリーンってなんだ?
少し前だったら考えられないような光景が、今やそこかしこで見られちゃうって、かなりヤバいと思ってる。
しかし、だからこそスマホゲームが流行ったのだろう、と私は思う。
例えば忙しい生活のなかで、電車で移動中のスキマ時間に何とかゲームをしたい、という人にはスマホで遊べて、しかもカセットがいらないゲームっていうのは持ち運びもカンタンだし携帯電話だから電車の中で遊ぶのも抵抗が少ない。敷居が低いっていうのは、かなり大事なポイントだ。
そこで私が少し気になっているのが「ダウンロード版」だ。
インターネットを通じてデータをダウンロードし、カセット無しでもゲームを遊べるダウンロード版(この場合のカセットは、ディスクでもソフトカードでも構わない)。ゲーム機の世界においてもソフト離れが進んでいるということ、実は私はこれが怖くて怖くてたまらない。
そもそも私はスーファミのカセットがゲームキューブでディスク式に変わった時、というかスーファミ・メガドラっ子だった私がプレステのソフトはディスク式だと知った時に、それはもうものすごい衝撃を受けたのだ。
確かに便利かもしれない。めちゃくちゃ便利かもしれない、っていうか実際便利だと思う。だって、かさばるものを持ち歩く必要がないし、ソフトが無くなって遊べなくなるって心配もないし、SDカードが無くなったらダメなんだけど最近のハードはそれも対策されてるし(New3DSとか)。「もうゲーム機だけでいいんじゃない?」と思うほどに最近のダウンロード式のゲームソフトは便利だ。
でも私は、だからこそ「それって本当にゲーム機なの?」と思うのだ。
これは完全に私の頭が古いだけっていうのは分かっているんだけど、ゲームって、ゲーム機があって、そこにカセットを挿して電源を入れて、上手く付かなかったら端子に息を吹きかけたりなんかして(でもこれ、実は端子に湿気が溜まって良くないらしい)、そういう風に遊ぶものなんじゃないの?と思ってしまうのだ。
というか、単純に触れるソフトが手元に無いのは寂しい。カセットに印刷されてるシール、それに描かれているゲームの世界の様子。大きいヤツだとホコリが溜まったりもする端子部。そういうワクワクする要素って、やっぱりダウンロード版には無いものなんじゃないだろうか。
最近のゲームのパッケージの、説明書がない現象にも同じことを思う。今やパッケージ版であっても説明書はケースみ紙切れが一枚くらい挟まれてるだけで、あとは電子説明書にお任せだ。説明書がないってことは、ゲームを遊ぶまでのワクワクが、パッケージ版にすら最早ケース裏にしか残っていないと言う事。
ワクワクできる要素が少ないのは、やはり寂しい。
とは言うものの、別にだからといって「昔のように戻せ!」とかそういう事じゃない。
だって、スマホゲームは別としても、ゲームは基本的に子供が遊ぶものだからだ。
勘違いしちゃいけないけれど、私はもう18になって、ゲームを遊ぶ歳からは随分離れてしまっているのだ。……もしかしたらこの考えも古いのかもしれないけど。
それでも、やっぱりゲームって、新しい世代の子たちが遊ぶものだと思うし(というかそうであって欲しい)、だからこそ別に私の懐古的な意見を聞く必要はない。
ゲームにはいつだって子供の意見が反映されるべきだ。私はそう思っている。
だから、今の子供たちにはたくさんゲームで遊んでほしいし、そこから色んな事を学び取って、感じ取ってほしい。
かつての私がそうだったように、あのワクワクをたくさん経験してほしい。
私はもう子供じゃなくなったから、最近のゲームに対して思う所っていうのはこういう風に結構あったりするんだけど、今を生きる子供たちには、パッケージ版じゃなくても、ダウンロード版でもスマホゲームでもなんで、ゲームを自分の思い出のゲームとして語れるくらい、ゲームを遊んで、ゲームを好きになってほしい。
そしていつか「オレたちが子供のころ、ちょうどダウンロード版が流行り出したんだよな」とか「あの頃の説明書と言ったら電子説明書が主流だったよね」とか「あの時代ってめちゃくちゃスマホゲーム多かったよね」とか、そういう風な話なんかをしてくれると、私はとても嬉しい。
カセットが消えて説明書も消えて、どんどんと変わりゆく今のゲームが、子供たちにとっていい思い出になることを切に願っている。
……いい話っぽくシメられてたら、狙い通り。
あ、でももし要望聞いてくれるならせめてパッケージ版にはお願いだから紙の説明書付けてください。マジで。
90年代のゲームキッズ達に捧げるゲームボーイカラーへの鎮魂歌
「あまりこういう事ばかり言うと老害呼ばわりされてしまう事があるけど、そんな事言っても事実なのだから仕方が無い…
『よく人にいう「スペースハリアーがなぜあそこまで当時のプレイヤーを惹きつけ、そしてあれほど移植されたのかは、当時のプレイヤーでなければ分からない」のと同じ』」
昔のゲームの話。
スペースハリアーというのは1985年のゲームで、詳しい事はwikipediaに書いてあるので説明は割愛するとして。
これは私のフォロワーであるオトナのゲーマーさんのツイートで、これを見たとき私はもうそれはひどい衝撃を受けて、しばらくウンウンと頷いたり「そうだよなあ……」と呟いたりしてた。
私が最近よく友人と話している話題で、「あの頃のゲームに感じていたワクワクとか感動とか面白さとかって、時が経つにつれて思い出に変わっていくんだね」つーのがあるんですけど、今日の早朝にツイッターで垂れ流しにしてたことか、ちょっとそれについてまとまった文章とか書いてみようと思う。
私たち90年代に生まれたゲームキッズって、ゲームボーイカラーがゲームボーイアドバンスになってポケモンのルビー・サファイアを遊んだ時の衝撃だとか、64がゲームキューブになってもうめちゃくちゃ画質も上がってスマブラDXを遊んだ時の感動だとか、きっとそういう気持ちを抱いたと思う。
少なくとも私は「ああ、時代ってすごく進化してるんだ」って確かに思ったんだよ、あの時。
ゲームボーイアドバンス、ゲームキューブ、共に2001年発売。
ついでに言うならプレイステーション2、2000年発売。
そうなんだよ。もう13,4年前なんだよ、アレ。
私の感覚としては比較的最近の事だと思ってたんだけど、それは全然違った。
今でもハッキリと思い出せるあの気持ちって、それはもう思い出だったのだ。
この前実機(初代GBA)でポケモンのエメラルドを起動したんだけど、流石に入れてた電池が切れてて乾電池を探したりなんかして、その『遠回り』はあの頃を思い出させてくれたりなんかして。
そう、そもそも電池式なんだよGBAって。
最近は充電式の携帯ゲーム機が主流になってきたからすっかり忘れてたけど、充電式って全然当たり前じゃないんだよ。というか、当たり前じゃなかったんだよ。
ともあれ電池をセットしてソフトも挿したし、いよいよ起動。
画面が暗くて何も見えない。
もう見づらくて見づらくて、しばらく悪戦苦闘してたんですが、そうなの。
初代GBAって光の下でやらないとまともに画面が見れないの。そりゃ眼も悪くなるわ、っていうレベルの画面の暗さなの。
だからこそGBASPの明るさなんか自分の中で革命的だったし、しかも充電式って事でもうとってもテンションが上がったのだ。(ただしGBASPはボクらの太陽が遊びづらい)
で、ここからワイヤレスコネクタだのゲームボーイミクロだのDSだのDSliteだのPSPだのDSiだのWiiだのPS3だの3DSだの、とテンション上がりっぱなしだったんだけど全部書いてると終わりがない気がして来たし、発売年を考えると懐かしさに押し潰されそうな気もするからスルーする。
でもさ、この感動っていうのは、あの頃にリアルタイムであのゲームたちを遊んでいた人間にしか分からないものなんだよな、みたいな話なんだよね。
これは「どうせお前らチビッコには理解できないよ」みたいな意味なんじゃなくって、「分かってくれたら嬉しいんだけど、難しいよなあ……」みたいなニュアンスで。
もしかすると、一つのジャンルに対する感動体験を共有できるのは、歳が離れすぎていなくて趣味や波長が合う人だけなのかもしれなくて、もしそうだとしたらそれはとても寂しいと思う。
もちろんその孤独がどの世代にも同じかそれ以上くらいあるものなのは分かっている。例えばそれこそ冒頭のようなウエの世代にも、ゲームボーイカラーを知らないシタの世代にも、私たちには分からない感動っていうものがあるんだろう。
私は偶然にもニンテンドウ64と同い年なんだけど、世の中にはニンテンドーDSと同い年の子供がいるのだ。いや、当たり前なんだけど。
ニンテンドーDSがニンテンドー3DSになった時のワクワクとか衝撃とか感動とかっていうのは、きっと私たちが感じたそれ以上の物だったんだと思う。
ニュージェネレーションはいつの時代もすぐそこにやってきているのだ。
それでも本音を言っちゃえば、DSなんかもう夢の詰まった未来のゲーム機だった、みたいなことをシタの世代に分かってほしいなあと私は思ってしまう。それを強要したらそれこそ老害と呼ばれる存在になってしまう気がするから絶対にしないけどね。
(しかしこれがたま~にこの感覚に強く興味を持って聞いてくる子供っていうのがいるからなかなか新世代も侮れないんだ。やっぱりこれは純粋に嬉しい)
「俺たちがこうして話してるこの場所だって、ちょっと前までは海だったんだぜ。それが数年後には、目の前のこの海に巨大な街がうまれる。でもそれだってあっという間に、一文の値打ちもない過去になるに決まってるんだ。たちのわるい冗談につきあってるようなもんさ」 劇場版パトレイバーより抜粋
いや、ここまで悲観的にものを見てるわけじゃないけれど、後藤隊長のこの言葉は何となく私の思ってる事に通ずるものがある気がする。
いつの時も変わることなく、今っていうのはどうしたって過去になる。
当たり前だけど、どんなに寂しくても、絶対に過去になる。
今の子にだって過去が出来ていくんだろうし、私たち90年代のゲームキッズにだってどんどん過去が出来ていく。
時を経た感動は思い出になる。
思い出になるって、もしかすると色褪せるってことなのかもしれない。もちろんそれだけとは言わないけれどね。
でも私はとにかくそれが寂しいんだけれど、その思い出を大切に大切にして、あの頃抱いた気持ちを出来る限り新鮮なままに覚えていたいと思った。
まあ、そんな難しい事はこのブログに置いといて、しばらくは何も考えずにゲームで遊ぶことにしよう。
ゲームは決してノスタルジーに浸るためのものではなくて、楽しく遊ぶためにあるものだ!